あそぼー小金原


最終更新 : 2014/11/23

「あそぼー小金原」はおやじニュースに2008年から掲載されているコラムです。子供でも遊べる。でも親子で、友達と一緒に遊べばもっと楽しくなる。そこに住んでいる小金原を重ねてみたら、もっと身近で楽しい地域にならないかな。そんな思いからこのコラムを始めました。(自称)多士済々なおやじの会のメンバーが、それぞれの思いで記事をつないでいきたいと考えています。もちろん、読者の方々の投稿も大歓迎です。

あそぼー小金原 15

2013年2月4日月曜日
浅井 通



 私、生まれも育ちも松戸市小金原。姓は浅井名は通。人呼んでふうてんの通と発しやす。 ちょっと自己紹介を寅さん風にやってみました。もう小金原に住んで36年になります。結構長いでしょ。2年間だけ千葉県の茂原市と言う所にも住んでいたんですよ。海にも近いし短い間でしたけどなかなか良い所でした。さて本題の小金原で私が子供の頃よく遊んだ思い出ですが、そうですね〜。やっぱり小学校の校庭でサッカーで、すかね。私は、貝小の卒業生ですが放課後は貝小の校庭でサッカーを友達とよくやってました。特別サッカーが好きだった訳でもありませんがなぜかよくやってました。
 むしろ私は、野球少年でして小学校の2年生の頃から始めました。当時は、チームも結構ありまして私が所属していたチームは松戸市の大会では殆んど優勝していたんですよ。でも今ではそんな強かったチームも無くなってしまい少し寂しい気がします。その頃のライバルチームと言えば、、、、、やはり小金原ビクトリーでした。その頃からピクトリーは強くて私の友達も何人か居たこともあって試合をやる時は特別な思いがありましたね。私の中では勝手に伝統の一戦みたいな気持ちになりプロ野球で言うと巨人ー阪神戦みたいな感じですかね。特に気合いが入ったのを今でも覚えています。練習は結構厳しかったですよ。正直辞めたいと何回も思いましたが野球は結局高校まで続けました。今となってはいい思い出です。(次号へ続く)

あそぼー小金原 14

2012年10月22日月曜日
野邊 浩志



 今年の夏は暑く日差しの強い日が続きましたね。暑くて日差しが強いというとハワイを連想し ませんか? 私が生まれた小金原の隣町、北小金駅の周りの小金にはハワイ通りという道があります。小金原に住む皆さんは北小金駅から帰りの小金原に向かうバス通り沿いですので名前はご存じだと思いますが、名前の由来はわからない方がいるのではと思います。ハワイ通りはおよそ四十年前、交通量が少なく中央にグリーンペルトがありそこにシュロの木がハワイを思わせるように植えられていましたのでハワイ通りとつけられたようです。私も小さいときの記憶に残っています。また、北小金駅前には今は全国的に有名になったマツモトキヨシの2号店があります(現在は実質1号店になっています)が、店の看板には22号店と書 いてあります。なぜでしょう? マツモトキヨシ創業者の元松戸市長の松本清さんは市民に好まれた市長さんのようで、それを証明するように小金には小金きよしヶ丘や小金清志町という町名や清ヶ丘公園という公園があります。小金は江戸時代の宿場町で子供のころ遊んだ友達の家は一般大名の宿だったところがそのまま残っていて、大名の座るところは時代劇のように一段高くなっていました。水戸黄門を見て「同じだ」と思ったものでした。今でも小金宿まつりが行われていますね。小金原は小金牧(軍馬育成の放牧場)の一部だったようですから皆さん四百年前なら馬の世話をしていたかもしれませんね?

あそぼー小金原 13

2012年3月24日土曜日
山田 明夫



「地域の中で育つ子どもたち」     小金原地区子ども会・育成会 山田 明夫
 桜並木が続く小金原・・住み慣れて38年、そんな自然多いこのまちが私は大好きです。平成4年まで「山形屋」洋服店の隣に在った小金原幼稚園に娘・息子が通い園庭から元気な声が聞こえていた時代。その子ども達が栗ヶ沢小学生のとき「子ども会」に入会。学区を越え大勢の子ども達と一緒になりソフトボール、ドッジボールの練習に汗を流しました。小金原中央公園で夏休みにテントを張りキャンプ大会。ジャンボ大釜で料理したカレーライスと豚汁。江戸川まで長蛇の列を作って行ったサイクリング。貝の花貝塚公園で写生大会等々自然のなかで異年齢の子どもたち同士で飛び廻って遊んでいたことを思い出します。今でも歴史遺跡の多い元高木村(現小金原地区)ウオークラリーは人気の行事です。江戸時代初期、水戸藩の御鷹場役所跡だった「殿内」〜「表門」「お堂の上」そして「茂呂神社」「七面神社」「坂川の源流の大清水」「根木内城跡公園」〜それに「21世紀の森と広場」〜小金原には10箇所もある「鳥の名前が付いている公園」を約2時間で歩き回るコースで楽しみます。次回開催する時は是非参加してみてください。
 そんな「小金原」も少子化、高年齢化地域となりつつあります。改めてご近所の「おやぢから」「絆」が必要とされる時代となったような気がします。小金原地区子ども会は「地域の中で育つ子どもたち」をモットーに親子三代、共に、協力し合い、「明るく元気で楽しく、大人(保護者=育成会会員)も子どもも参加者みんなで楽しもう!!」を合言葉に行事を計画、活動しています。おやじの会メンバーの方々には夏祭り・御輿・夕涼み映画会・正月飾り作り・星空観察会等々あらゆる行事でサポート、協力して頂いています。今後もおやじの会と一緒に「おもしろ企画」で遊べたらいいな ― と思います。  (子ども会に関しての問い合わせ先 TEL.341−0516 山田まで)

あそぼー小金原 12

2012年2月28日火曜日
鈴木 裕嗣 (2)



 今年は寒く、雪も何度か降りましたが、雪が降るとワクワクしませんか?
 松戸に住んで37年になりますが、いまだに雪を見ると心が弾みます。私は福島県二本松市の出身です。中通り地方といって、雪は降ってもせいぜい20〜30cmでした。しかし、気温が低いので、なかなか融けなかったと思います。そんな冬の遊びといったら、ソリ、スキー、スケートでした。同じ年令の時に3つともやったのではなく、成長することで次の遊びに移っていったように思います。
 先ずはソリ。これは自分で作ることは出来ず、親に作ってもらいました。滑り面には平鋼(鉄)がはってあり、シーズン始めには錆びを落として使いました。ゲレンデは畑や山道でした。
 次はスキーです。スキーは自作です。竹を割き、先端を火であぶりながらそれらしく反りを付け、ロウを塗った気がします。止め金具やストックはありません。山道を登り、雪の上に置いたスキーに乗るだけです。あとは重力にまかせて滑るだけ。転んだり、うまく止まらないとスキーだけ滑って行ってしまう、大変技術?を要する遊びでした。
 最後はスケートです。小学校高学年から中学生の時に遊びました。長靴の下に歯のついた(スケート靴の靴がない)ものをはき、リンクは田んぼでした。切り株があり転んだりもしましたが、寒い中、汗をびっしょりかきながら滑りました。
 そんな遊びをしながら、長い 冬を楽しんできました。今でも 公園で築山や斜面を見つけると、「ここはちょうどいい勾配だな」なんて思うときがあります。

あそぼー小金原 11

2011年10月20日木曜日
有川 貞彦



 私は、柏市酒井根で生まれ、小学校は酒井根西小学校でした。
 当時、自宅から一番近い信号が「殿内」だったぐらいですから、小金原はとても身近な土地でした。
 駄菓子屋でお菓子を買ったり、柏市と小金原の境付近でザリガニを取ったり、自転車レースをしたり、かもめ公園で遊んだり、色んな思い出がありますが、私にとっての小金原は、「トレーニング」の記憶が強いです。
 小学生の頃から、父親と毎朝、酒井根グランドでトレーニングをしていました。ロードワークの際には、酒井根グランド〜北部市場の往復を走り、後ろから父親が自転車で追いかけてくるのです。その道のりには坂が何度も続き、最高のトレーニングコースでした。
 当時は、ただキツいだけで「走りたくないなぁ」なんて思う日もありましたが、今考えると、その頃のおかげで、丈夫な身体を作れたこと、スポーツを続けられたこと、そして今があるのではないかなと思っています。

あそぼー小金原 10

2011年6月27日月曜日
岩堀 研嗣



 私が小さな頃に遊んだ記憶として残っているのが、私の住む小松園町会と柏市との境にある富士川の源泉、大清水周辺の自然です。
 小学生の頃よく遊びにいきましたので、30年位前、昭和50年代の記憶です。
 当時は、今現在の湧水のある道よりも低い位置に田んぼや沼地が広がっていて、よくザリガニ釣りをしたものでした。近所の駄菓子屋さんで買ったよっちゃんいかを糸でつるせば、簡単にひっかかり、大きさを競ったものでした。他にもゲンゴロウやタニシ、ドジョウやカエル、小さなカニなども沢山いました。沼にはメダカやコイもいて、釣りにきている人もいましたし、イカダが作っておいてあったりもしました。
 イカダ遊びは活発な上級生が、沼に落ちている姿をみていたので、私は慎重派でした。
 また、田んぼや沼を超えた柏側には、小さな山のような崖のようなところがあり、「探検」しにいった記憶があります。そこにはアーチェリー場があり、たまに矢が飛んでいたのを覚えてい ます。
 今思い返せば、自然をとおして遊び、学ぶ場所として、とても恵まれていたものだと改めて気づかされます。現在、この大清水は「大清泉の湧水を復元し周辺の環境をまもる会」によって大切に守られています。

あそぼー小金原 9

2011年2月22日火曜日
中村 太郎



 私は1970年代に昭和で言えば40年代から50年代に栗ヶ沢小学校と栗ヶ沢中学校に在学しておりました。当時を思い出すとあの頃の子供の遊びは野球・缶蹴り・自転車に乗っかって団地や公園をうろうろする・駄菓子屋で買い食いをするといった事が多かったですね。学校が終わると友達同士で集まる場所と時間を決めて少人数で遊べる草野球を楽しんでおりました。小学生の遊びの草野球ですからペンギン公園や中央グラウンドを使うのではなく小金原の団地の芝生に入ってプレーをしておりました。ふんわりした草の上で転がっても汚れることなく擦り傷を心配することなく贅沢に遊べたなんて今では考えられないことです。昭和40年代の小金原は空き地や畑が多く、栗中の前のグリーンベルトを挟んだ向かい側の土地はキャベツ畑とねぎ畑が点在しておりました。殿内の十字路の1000円床屋はその昔、とうもろこし畑でした。朝の登校で畑の上に降りた霜柱を踏み歩くのが悪いとわかっていても嬉しかったです。栗中の向かい側の文房具店でゴジラ映画の割引券が欲しいがために消しゴムなどをわざわざ買いに行って、割引券をもらえる口実を作ったりもしました。
 小学校最後の仕事は6年1組のタイムカプセル埋設でしたでしょうか。我々が20歳になったら栗小校門に集まって、卒業時に埋めたタイムカプセルをみんなで掘り起こそうと誓い合って卒業したのですが、その約束は果たされることなく栗っ子だった少年たちは40歳を過ぎてしまい地元からも引っ越しておりました。2006年の恩師の退官に合わせて、私と工事現場監督として出世したテッちゃんのふたりで日本製パワーショベルを導入し、雨天決行5回目のアタックにしてタイムカプセルを29年ぶりに発掘したのでした。栗小・栗中の卒業生である私が地元から離れていなかったためでしょうか、母校二校の卒業アルバムを作らせてい ただく御縁をいただいております。

あそぼー小金原 8

2011年1月14日金曜日
勝沼 香織



 私は生まれも育ちも松戸で、小学校は貝の花小学校でした。結婚後、一時は小金原を離れて暮らしていましたが、子供が生まれてから小金原に戻って来ました。昔は空き地も多くて近所にあった、通称首つり山(現在は住宅展示場)で友達と秘密基地・を作ったり、探検・したり、崖を登る競争をしたり、と今考えると子供が遊ぶのには魅力的な場所がたくさんありました(^^)。中学は栗中ではなかったので小金原に戻ったと言っても同級生に会う事も少なくて(T^T)。でも、おやじの会に入って自分の育った町の変化を見る事もいいかなと思う今日この頃です。

あそぼー小金原 7

2010年4月11日日曜日
小野寺 敦



 子供の頃の自分が夢中でしていた遊びと言えば、空き地や公園でする三角ベースの野球か、近所の林で昆虫を獲ったり、水場にいる生き物を見つけることでした。不思議なもので切り取られたそれらの遊びのシーンは今でも写真のように鮮やかに蘇ってきます。
 昨年の夏の夜、息子と一緒に懐中電灯を手に近所のコナラ林に虫捕りに出掛けてみました。すると自分の背丈の倍以上の高さのところに、黒光りするノコギリクワガタのオスがいる!これは何としても獲ってあげたい。否や息子よりも断然興奮している自分がいます。すぐさま自宅に走って引き返し、ベランダの物干し竿を片手に現場に戻る。さらに竿の先端に虫取り網をガムテープで固定して獲物目掛けてそろそろと伸ばしてみる。“引っ掛けて下に落とすから見失うなよ!”声が思わずうわずる‥‥。そして見事捕まえ子供と顔を合わせてほくそえんだ瞬間、童心に返るとはまさにこういうことなのかと実感しました。別の日には、近所のくぬぎ林で今度は大きなカブトムシを捕まえました。また先日ザリガニを公園で捕まえたと言って嬉しそうに持ち帰ってきた子供達の姿などを見ると、この小金原および周辺は、充分魅力に富んだ遊び環境を有しているんだな、と思えてくるのです。
 ふと三角ベース野球の1塁の代わりにしていた立派なイチョウの木が見えてくる。澄んだ水の底に潜むヤゴをすくった瞬間をありありと思い起こすことも出来る。そうしたシーンが、あるとき穏やかな心地良さを今の自分にもたらしてくれたり、大げさかもしれないけれど、例えば窮地に陥った際に土俵際でどっこい踏みとどまれる底力みたいなものを養ってくれたりするのではないか、と最近になって思ったりします。いまの子供たちも自分たちの様々な遊びのシーンを、きっとそれぞれがそれぞれの形で心に刻んでいっているのだろうなぁ、と思うのです。

あそぼー小金原 6

2009年10月24日土曜日
神戸 雅敏



 私は昭和48年から小金原育ち(生まれはマルエツ裏の某産婦人科です)で、かれこれ36年この地に住んでいます。
 さて、私が遊んでいた行動範囲は、これまでの皆さんに語られてしまいましたので、今回は、時々TVの特番でやっている“はじめて のおつかい”の私バージョンをお話しします。
 はじめてのおつかいは小金原団地前の“丸正ストアー”の豆腐屋さんでした。丸正ストアーは当時、八百屋さん・肉屋さん・魚屋さん・豆腐屋さん・乾物屋さん・パン屋さん・惣菜屋さんといった、立派な商店街!! 幼稚園児であった私は、母にお金を渡され『絹ごし豆腐』を1丁買いに行きました。当時は隣近所の大人達やお店の人達も『あれは誰さん家の誰ちゃんだ』というのを把握していたのか特に問題も無く立派におつかいを達成しました。
 その後、小学生になっておつかい後に小遣いを貰い、栗ヶ沢の某駄菓子屋さんによく行ったものです(大人になってからまさか自分の子供とその駄菓子屋さんに行くとは夢にも思いませんでした が・・・・・。)
 今の世の中、なかなか『どこの家の誰ちゃん』といったことを把握するのは難しいことですが子供達が“はじめてのおつかい”や一人 で買い物が出来るように大人達が見守っている“環境の良い小金 原”がいつまでも続いて欲しいと願っています。

あそぼー小金原 5

2009年6月20日土曜日
高橋 宏樹



はじめまして、私は高橋宏樹と申します。生まれも育ちも現小金原地区です。
 さて私がまだ高木小学校一年生に入学したころは、まだ、ここ小金原地区は、存在しませんでした。
 そのころの私の遊ぶ場所は広大に広がる雑木林と今はもう無い大清水田んぼでした。しばらくすると小金原地区の宅地造成工事が始まり瞬く間に私の家の周りの雑木林が無くなり広大な造成地が出現しました。そして私の遊ぶ場所はその工事現場に移りました。色々な工事車両の後ろを追いかけて行くのが楽しみでした。
 更に時がたち造成工事が終わり家や団地が建設前の宅地が出現、広大な原っぱが出来、置き去りにされたとても大きなヒューム管の中で遊んだりしていました。ここまでは高木小学校二年生三学期までの話です。
 三年生からは栗ケ沢小学校が新設され編入、新たに栗ケ沢小学校での学校生活が始まりました。
 その後の遊びの事はまた次の機会に、これからもどうぞよろしく。

あそぼー小金原 4

2009年5月9日土曜日
村田 功



 今から35年位前、私が栗小の高学年だった頃、放課後が近づくと心ソワソワ、友達を見つけては「今日野球できる?」が口癖でした。大勢の友達が集められた時はペンギン公園で軟式ボールを使い、少ない時は団地内でビニールボールで三角ベースと工夫しながら、友達と外に出ての遊びに明け暮れていました。野球をしない時でも自転車にはグローブ、バット、ボールは必ず積んでいました。野球に限らず大勢で戸外で遊ぶことがとても楽しい毎日でした。長い年月が経ちましたが、昔ペンギン公園で野球をすることが何より楽しかった頃を懐かしく思い、今おやじ達が同じ場所でソフトボールを楽しんでいることを考えると、今でも多くの遊び心を持ち続けている「おやじの会」は友達探しの最高の場所です。子ども達の為にも、いつまでも環境の良い小金原であって欲しいと願っています。

あそぼー小金原 3

2009年3月14日土曜日
前田 裕爾



 私の家が都内からこの地に引っ越してきたのは3歳の頃、昭和30年代の後半でした。まだ、小金原という地名は無く、この辺り一帯が栗ヶ沢と呼ばれていて、畑と田んぼ、そして深い森といった豊かな自然環境の中で子ども時代を過ごしました。
 夏の楽しみは昆虫採集。家のすぐ前に雑木林があり、クヌギの木などの樹液に集まる昆虫を朝ご飯の前に採りに行くんです。お目当てはもちろんカブト虫とクワガタ。大きくて強いのが採れたときは誇らしくて、友達と自慢のカブト虫を持ち寄って闘わせたものです。田んぼや沼でのザリガニ採りもよくやりました。やはり、大きくてハサミのでかいのが採れると嬉しかったものです。でも、家でバケツに入れておいたら、共食いで数が減っていたなんてこともよくありましたけど。また、田舎道を常盤平駅まで歩いて、新京成電鉄に乗って谷津遊園や船橋ヘルスセンターに連れていってもらうのが夏休み最大のイベントでした。
 冬は今よりずっと寒くて、雪も結構積もった記憶があります。今の八ヶ崎第二小の辺りに「ガマ池」と呼んでいた沼があって、冬の寒い日には子どもが乗っても大丈夫なくらい厚い氷が張るんです。ある日、兄とふたりで氷の上で滑って遊んでいたら、突然氷が割れて水の中にドボン!!寒風の中をびしょぬれになって、泣きべそをかきながら家に帰った事を覚えています。
 そんな野生児の生活でしたが、小学校2年生の頃から小金原団地の造成が始まりました。森を切り開き、谷を埋めていくブルドーザーが怪獣のように恐ろしく、また憎らしく思えたものです。その団地も、できてすでに40年の歳月が流れました。
 この小金原が、これからの子どもたちにとっても、楽しい思い出の残る土地となるように頑張っていきたいと思います。

あそぼー小金原 2

2009年1月17日土曜日
竹内 哲



 おやじの会編集員、竹内と申します。私は昭和44年に東京より小金原に引越し、一時期流山市に住んでいた時期もありますが、栗ヶ沢小学校 栗ヶ沢中学校と卒業させて頂きました。
 さてさて、こんな私の遠い記憶を掘り起こし当時こんな場所・こんな事で遊んでいた(?)等を紹介させて頂きます。
【石】さすがに国道6号線は舗装されていたと思いますが、今のバス通り(小中学校の前)なども舗装されていませんでした。バスも北小金行きのバスは無く(多分無かったように思います)馬橋行きが主な行き先でした。引っ越してしばらくして、地元の子供たちと遊ぶようにもなりました。一緒に遊ぶようになると当然喧嘩も・・・驚きました(@@; 地元の子がいきなりしゃがんだと思ったら、子供のこぶし位ある地面の石を掴みこっちに向かって全力投球!!! 当たりはしなかったのですが子供ながらに衝撃的な全力投球でした。
【沼】今はありませんが、AB団地の下のほう(柏より)にお世辞にも綺麗とはとは言えない沼がありました。しかしそこはアメリカザリガニの宝庫で、駄菓子屋さんで『よっちゃんいか』を買い、自分で作った釣竿(?)に『よっちゃんいか』を縛りつけザリガニの前に。暫く待つとザリガニが大きな鋏でよっちゃんいかに喰らい付き1匹目のザリガニGetです!!! 2匹目からは1匹目のザリガニの尻尾を餌にGetGetGetでした。夢中でザリガニ釣りをしているとズブズブと沼に足が・・・沼にはまった靴や長靴はなかなか抜けず、何足かは沼から取れず帰りは裸足で家に帰り、親に怒られたものです。(^^;
 遠い昔の曖昧な記憶を呼び戻しながら昔の遊び(?)紹介でした。

あそぼー小金原 1

2008年12月18日木曜日
鈴木 裕嗣



 子供でも遊べる。でも親子で、友達と一緒に遊べばもっと楽しくなる。そこに住んでいる小金原を重ねてみたら、もっと身近で楽しい地域にならないかな。そんな思いからこのコーナーを始めました。(自称)多士済々なおやじの会のメンバーが、それぞれの思いで記事をつないでいきたいと考えています。もちろん、読者の方々の投稿も大歓迎です。
 さて第一回目の今回は、すでに冬に入ってしまいましたが、『実りの秋』のほんの一コマをテーマに書きました。木々には様々な実がなりますが、その中でもドングリは誰もが知っているものです。
 一口に“ドングリ”といっても日本には約20種類もあるそうです。その中でこの小金原でもよく見かけるのは、コナラ、クヌギ、シラカシ、マテバシイでしょうか。貝小にはマテバシイがたくさん植えられています。さてそのドングリを使っていろんな遊びが出来ます。是非親子で作って遊んでみてはいかがでしょうか…
 ということでいくつかドングリをつかった遊びをあげてみますと、ドングリ笛、ドングリコマ、トトロ、やじろべい、マラカス、壁飾りなどなど…本当にたくさんあります。まずはドングリを拾いに小金原を歩いてみませんか。作り方は次号以降で少しずつ紹介していきたいと思います。
 ところで、12月1日付けの広報まつどに、小金原地区子ども会で“どんぐりキッズ隊”を立ち上げたという記事が紹介されていました。環境問題にも関心が高い小金原です。

問合せ先 : kfa.root@gmail.com